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コラム

【借金玉寄稿】ブランドとの付き合い方

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皆さんどうも、借金玉です。ブランドについて書け、と言われたのでブランドについて書きたいと思います。ところで皆さん、ブランド品使っていますか?僕はどっちかというと実用主義者ではあるけれど、実はお気に入りのブランドもいくつかある。そんな感じです。

ブランドというのは不思議なものです。東南アジアに旅行に行ったことがある人は、偽ブランドの屋台の軒先に絢爛豪華なパチモノの群れが並ぶのを見たことがあると思いますし、ちょっと目が利く人は偽ブランドの腕時計をしている人を見かけたことがあったりもするでしょう。有名ブランドのロゴのついたサンダルの金具が、二日も履いたら弾け飛んで苦笑した記憶がある人も多いと思います。

特に、腕時計というのは不思議なアイテムで、時間を知るという機能だけで言えばお手頃な値段で買える商品がたくさんあります。国産の数千円の腕時計でも機能的に不十分だとは思えません。しかし、相変わらずブランド物の腕時計は売れ続けている。そこにはある種の非合理的な、実用性では測れない価値が存在するのです。今日はそんなお話をさせていただきます。

ブランドとは狂気である

ブランドとは狂気だと僕は思います。ブランドの王とは何かということを考えると、異論はあるかもしれませんが「ワイン」という答えはそれなりに説得力を持つものでしょう。世界最高のワイン醸造所と言われるドメーヌ・ド・ラ・ロマネコンティ(以下DRC)のワインは、上位のものになるとボトル一本が軽々と100万円を越します。

ブドウを発酵させた750mlの液体が、日本の平均的労働者数か月分の給与に値する価値を持つのです。実を言えば、僕は一口だけDRCのワインを飲んだことがあります。それは澱が積もったボトルの底に残った、ほんの僅かの飲み残しでした。飲食店に勤めたことのある人ならわかると思いますが、この一口のために仕事をしているようなものですよね。そして、それは確かに感動的な美味ではありました。でも、これが僕の稼ぎ数か月分の価値を持つということに、やはり納得できなかったのを強く覚えています。

こういった狂気と似通うものに「相場」というものがあります。古くはチューリップ、株、土地、最近は仮想通貨まで。人々の熱狂があるものの値段を信じられないところまで押し上げ、そして多くの場合それは暴落する。僕の30年をちょっとすぎるくらいの人生でも、たくさんそんな光景を見てきました。リーマン・ショックの頃には奨学金を原資に相場を張っていたのでなかなか刺激的な体験をさせてもらいました。思い出したくもありません。

しかし、完成されたブランドは相場のように乱高下するものではありません。DRCのワインが一本1万円になることは、おそらく今後50年はないでしょう。いわば、高度に作り上げられ、ある種の不動性を獲得した狂気の物語、それがブランドなのです。DRCのワインを呑む時、人は発酵した葡萄の液体を呑んでいるのではありません。DRCという物語を呑んでいるのです。

ブランド構築に失敗したこと

そんなわけで、商人にとって「ブランドを創り出す」というのは一つの大きな目標です。何せ、高く売ることができるのですから。かくいう僕も、かつて一度ブランドメイキングに挑戦し、惨憺たる敗北を経験しました。あまり詳細に書けなくて申し訳ないのですが、海外からまだ価値を認められていない商品を輸入して、日本で付加価値を再構築して売る。そんな算段でした。

数千万円の出資をかき集め、従業員を雇い数年をかけて挑んだこの事業が救いのない結果に終わった時、僕はブランド構築というものの難しさをやっと体感的に理解できた気がしました。例えば、DRCの葡萄畑は極めて特異な栽培方法を採用しているため、恐ろしく収穫効率が悪いのです。1本のワインのために三本の葡萄の木が必要になり、その木の樹齢は50年程度と考えれば、どれほどの狂気がそこに注がれているかの一端を知ることができるでしょう。ちなみに一般的な葡萄畑の収穫量はこの15倍から30倍くらいです。

その結果生まれるワインの味について、僕は多くを語れません。しかし、この狂気こそが人々を熱狂させ、「一度でいいから呑んでみたい」という憧れを産むのです。ブランド構築に挑んだ頃の僕は、一般的見地で見れば十分に狂気の投資をしていたけれど、世界最高峰の狂気から見ればまだ浅瀬に恐々足を入れたところといったところだったんでしょうね。一世一代の大勝負も、終わってみれば自分の矮小さだけが残りました。

物語を着こなして

「ブランド狂い」という言葉があります。高価で実質のないものに湯水のようにお金を費やす浪費家、という批判はそれなりに説得力があるものかもしれません。1000円のワインを呑んで、300円のチーズを食べて暮らすのが正しい、というのも一理はあるでしょう。実際、僕の常飲しているワインは箱詰めされた業務用のものです。

色んなワインがゴチャゴチャに混ぜ合わされた格安ワインで、不思議なことにそれなりに呑める味です。酒造大手らしく、素晴らしいおいしさではないけれど、ちょっと呑んだり牛肉を煮たり気軽に使える素晴らしい商品です。

しかし、僕にも愛用しているブランド品はいくつかあります。例えば、僕の包丁はちょっとしたスクーターが買えるくらいのお値段がしますし、革のブーツは安売り革靴がダースで買えるくらいのお値段がします。これらの実用性が値段に釣り合うか、と言われると釣り合わないでしょう。包丁は洋包丁の良いものを買えばメンテナンスももっと楽ですし、僕の作る料理にそこまでの切れ味が必須というわけではありません。和包丁のタコ引きなんて、性能的には1万円も出せば買えるサーモンナイフで十分です、少なくとも僕にとっては。

でも、僕はこのメンテナンス用具だけでそれなりの包丁や靴が買えてしまうお値段のブランド品がとても気に入っています。そのブランドにまつわる物語を身に着けていると、なんだか少し上等な人間になったような気がしますし、料理も美味しく仕上がるんじゃないかという気持ちになります。人はパンのみに生きるわけじゃない、こういった奢侈というのはそれなりに人生を豊かにすると僕は考えています。

アートについて、そしてブランド品の買い方について

ブランドの極北としてワインのお話をしましたが、もう一つ。ブランドにとても良く似たものにアートがあります。ゴッホの絵が、ピカソの絵があれほどの価値を持つ理由を、きっと誰も説明できないでしょう。それは、本質を言えばカンバスにへばりついた絵の具に過ぎません。しかし、それはやはりピカソの絵でありゴッホの絵なのです。

長らく、アートは不遇の時代でした。不景気になると一番最初に切り捨てられるのは実用性のないもの、即ち芸術です。今は少しだけ景気がよくなったのか、知り合いの絵描きや文章描きの暮らし向きがよくなった話を聞くことが増えてきました。僕自身もこうして文章でご飯を食べることができるようになりました。本当にありがたい限りです。

そういうわけで、ブランド品の買い方はまず一つ。一枚の絵を買うように買うことです。値段の比較も、コスパの検討も一切なく、「これが好きだからこれを買うのだ」と断じて買った商品は、きっとあなたを満足させてくれるでしょう。こういった消費をしてくれる人々のおかげで、創造者は生き残っています。

そしてもう一つが、自己を社会的に演出するための実用性として買うことです。かつて、僕は先輩経営者に「もっとマシな腕時計をしないと誰にも信用されないぞ」と叱られたことがありました。それは、ある種の風習に過ぎないのだろうけれど、身に着けているもので人間を値踏みする社会というのは存在します。本音を言えばくだらないことだと思いますが、スーツ、鞄、靴、時計…そういう投資は必要になることもあるでしょう。

有名無名を問わず、しっかりとした値段を提示するブランドにはいずれも何某かの物語があります。その中にはもちろん陳腐なものもありますし、クソみたいにくだらないものもあります。しかし、僕はブランド品を消費することを悪いことだとは一切思いません。三ツ星のレストランも、300円の牛丼も両方楽しめてこその人生です。

あなたの財政事情が許すなら、あなたは必要なものを、あるいはほれ込んだものを買いましょう。人間の消費が実用だけになってしまったら、そんなつまらないことはありません。人は物語を呑み、物語を着こなし、物語を履くという楽しさを享受して良いのです。もちろんやり過ぎれば人生を破滅させかねないものだけれど、かといってこれを全くしないというのも些か寂しいものです。

デフレマインドというのは悲しいものです。本当に良い消費というのは「俺はこれに価値を見出すのだ」と言い切れるもののことです。コスパの一言で形容できる消費活動は、間違いなくあなたの人生を貧しいものにします。あなたの惚れ込める狂気の物語を見つけられることを、心より祈ります。どうか、豊かな消費活動があなたとともにありますように。

そして、僕の文章にお金を出してくれる皆様に、心から感謝を。借金玉ブランドと呼べるものが出来上がるように、やっていきたいと思います。やっていきましょう。

※この記事は、ベンチャーネットライターズ借金玉様より寄稿されました。